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DV理論の最前線から #2 (09/03/00)

DVの定義が「パートナーへの暴力」ではない理由

前項は、この連載におけるDVの定義を放り出して終わりました。 #2から読んでいる方のために、ここでもう一度挙げておきます。

表面上「親密」な人間関係において、一方のパートナーが継続して他方をコントロールするパターン。 またそのパターンを作り出し、維持するための仕組み。

この定義がマスメディアや一般の書籍における定義と違うと一目見て気付くのは「被害者=女性、加害者=男性と特定していない」「関係が異性愛か同性愛か特定していない」「既婚か未婚かなど人間関係の法的な地位を特定していない」という部分だと思います。 これらの点については「そう、確かに女性による男性への暴力や同性間の暴力もあるだろうけど、統計上は95%くらいが男性による女性への暴力です」という反論もあるので後で考えるとして、そうした議論をするためこの定義を掲げたのではありません。 この定義で一番重要なのは、DVを単なる「暴力」ではなく「パターン」と言い換えている点です。 どういう事か説明します。

DVにおける「暴力」は「身体的暴力」「精神的暴力」「性的暴力」「経済的暴力」などいくつかに分類されています。 そのうち、警察や司法の取り組みでまっ先に対策が取られているのが、明白に違法かつ犯罪とされる「身体的暴力」(殴る、蹴るなど)と「性的暴力」(レイプや望まない性行為の強要など)です。 DV被害者を支援する活動をしている人たちが「DVは犯罪です」「家族の中で起きたからといって警察が介入しないのはおかしい」と主張して来た事からも、DVに反対する運動がこれら「犯罪型DV」を中心に活動してきた事が分かります。 しかし、「DV=暴力=犯罪」というモデルで運動を続けた場合、直接犯罪とは言えない「精神的暴力」や「経済的暴力」はどうなるのでしょうか?

極端な例を挙げると、「自分の言う事を聞かなければセックスをしない」と言ってパートナーを傷つけようとする人がいたとします。 これは精神的な暴力に当たるのでしょうか? そうだとすると、この人にはセックスを拒絶する権利がないというおかしな結論になるのでしょうか? あるいは、その行為が犯罪でない限り暴力でもDVでもないと見なすのが正しいのでしょうか。 すると、いくら挑発や精神的な虐待があってもとにかく先に手を出した方が悪いのでしょうか。

別な例を挙げます。 「無理矢理パートナーに売春をさせる」事が性的暴力であるという事には異論がないでしょうが、逆に「無理矢理パートナーに売春を止めさせる」のは構わないのでしょうか? 仮にそれがDVだとすると、被害者が売春を続ける権利を擁護するために警察や裁判所が介入するべきなのでしょうか? これに似た例をもう1つだけ挙げると、「パートナーに無断で浮気する」のは精神的暴力に含まれるのでしょうか? もしそうだとすると、「パートナーを性的に独占する」のはどうなのでしょう? こうして見ていくと、「DV=暴力=犯罪」というロジックで対処できる暴力はよほど白黒が単純なケースだけでないかと思えてきます。

DVを「パ−トナ−間の暴力行為、すなわち犯罪」と位置付けた運動は、アメリカでかなりの成果を挙げています。 例えば、「mandatory arrest law」と呼ばれる法律では、身体的な暴力があったと信じるに足る理由があった場合、仮に被害者が望まなくても取りあえず加害者を逮捕して留置所に連れて行く事が警察官に義務付けられました。 それまで現場の警官の裁量で決められていた対処が統一されたのです。 これに続いて、逮捕された側は子どもに対する親権を自動的に一時停止されたり、銃の保持を禁止(既に持っていた場合は売却を義務付け)されたりする仕組みも作られました。 また、アメリカの特に都市部では被害者が裁判所に出向けば比較的簡単に保護命令を受けられますが、これにより同居していた場合は自動的に加害者が家を追い出される仕組みにもなっています。

それと同時に深刻な問題となってきたのが、被害者の誤認逮捕です。 誤認逮捕が起きる要因はいくつかあって、正当防衛が誤読されるケース(加害者の暴力は「殴る、蹴る、押さえ付ける」など次の日まであざが出ない種類の暴力である事が多いのに対し、被害者は「引っ掻く、噛む」などすぐに傷が見える形で反撃する事が多い)や人種差別などの偏見によるもの(例えば黒人は男性でも女性でも白人より攻撃的だというステレオタイプがあり、ゲイやレズビアンのカップルでは被害者と加害者が一緒にされる事がある)、加害者が自分が被害者だと騙るケース(警察が来ると気付いた途端に自分の体に引っ掻き傷を作るなど)がありますが、忘れてはいけないのは警察が対処できるのは個々の具体的な犯罪行為に対してのみで、当事者の関係の中でその行為がどのような位置付けであるのか関知しない事です。

正当防衛や加害者による嘘の申告を見抜くための技術を磨く事はできますし、差別や偏見で被害者を加害者と誤認しないように警官や裁判官を訓練する事も可能かも知れません。 しかし例えば、長年精神的な虐待に耐えてきた被害者が、寝ている加害者に復讐したというケースがあったとしたら、過去の経緯がどうであれ、警察は一度だけ暴力をふるったその被害者を加害者として逮捕せざるを得ません。 これは、個々の警官が真面目にDVに取り組んでいるかどうかという事とは関係なく、警察や裁判所は、DVのパターンを見て対処する仕組みになっていないという事です。

そういう事を繰り返すうちに、加害者は次第に「どういう行為なら逮捕されるか」「どういう行為なら安全か」学習するようになり、直接暴力を奮わずに被害者を挑発して先に手を出させようとするなど、より手の込んだ方法でDVを継続するようになります。 つまり極論すれば、アメリカで20年以上に渡って「警察はDVを厳しく取り締まれ」と運動してきた結果、DVを取り締まる法律そのものが加害者の手によって被害者を虐待する道具の1つになってしまったのです。

DVの本質は、一方のパートナーによる他方へのコントロール・支配です。 「殴る、蹴る」などの身体的な暴力はその手軽な道具ではありますが、口で非難するのも挑発するのも物を隠すのも家から出るのを許さないのも身体的な暴力と同じく支配の道具です。 誤解を恐れず言えば、セックスに応じるのも応じないのも、浮気をするのもさせないのも、さらにはバラの花束を贈る事だって相手を支配するための道具になり得るのです。 DVとは、こうした個々の行為の相互連関によってどのような人間関係が築かれるかを指している言葉であって、個々の暴力的な行為そのものの総称ではありません

その点で、DVは他の犯罪とは全く違った概念のものであり、そもそもDVが犯罪であるという言い方は厳密には間違っているのです。 正しくは、DVの中で犯罪が起きる可能性は非常に高いですが、仮に犯罪行為が一切無かったとしてもDVが起きていないという事にはなりません。 また、パートナーに対して犯罪行為を行った人が全てDV加害者というわけではなく、実際は被害者である事も多いのです。 刑法の修正や徹底だけでDVに対処できるという発想は、それ自体がDVに対する無理解から生ずるものだと思います。

DVの問題で活動している民間団体が多いのは、現時点で警察や裁判所がそれほど真面目にDV対策に取り組まないからだけではありません。 DVの道具となり得る行為を箇条書きして一律に禁止するのが不可能であり、仮に可能であったとしても現行の自由主義制度に到底合致しない以上、DVに本当の意味で対処できるのは民間の取り組みだけであると思います。 また、民間には加害者に刑事罰を与える事はできないので、シェルターやサポートグループを通した既に起きたDVの被害者の支援や、DVを予防するための活動などが主流になります。 自治体や国がするべき事は、これらの民間の活動に協力し、またそのための制度を整える事です。 こうした民間と自治体などの協力体制によるコミュニティ・レスポンスの取り組みこそが一番重要だと私は思っています。

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