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(e)merging. 第3回 (08/16/98)

自分の欲望という『獣』を認めるということ

テキスト:

Donna Minkowitz, Giving It Up: Orgasm, Fear and Femaleness, from "To Be Real: Telling the truth and Changing the Face of Feminism" Rebecca Walker, ed. (1995)

1995年に第3次フェミニズムのアンソロジーとしてRebecca Walkerが「To Be Real」を編集・出版した際、その内容から第2次のフェミニストたちに最もショックを与えたのが、このDonna Minkowitzによる「Giving It Up」という論文です。 あまりに視点が違いすぎるためか後述するように第2次フェミニズムから大きく誤解して論評される事の多い論文ですが、ここでは彼女の主張に沿って紹介していきます。

私がDonna Minkowitzというフェミニストの事を知ったのは、彼女が「Ms.」誌に寄稿した原理主義キリスト教団体「プロミス・キーパーズ」についての記事読んだ時です。 プロミス・キーパーズとは、「伝統的な家族の価値」を守るために家庭の中で男性の復権を目指すカルト的団体ですが、各地で男性のみの大集会を繰り返してメンバーを集めています。

彼女はこの集会を取材したのですが、何と男装した上で一般信者を装って参加して取材しています。 女性でありユダヤ教徒であるMinkowitzにとって、もし正体がばれたら何が起きるか分からないような現場に飛び込んで取材する度胸に感心し、以来彼女の記事を見つけたら読むようにしています。

さて、こういう彼女の論文ですが、いきなり刑務所の中で小柄の男性囚人がもう一人の囚人にレイプされるシーンの描写から始まります。 これは「The Sexual Jungle」というポルノ小説からの引用なのですが、Catharine MacKinnonなら続いてポルノがいかに抑圧的か批判するところを、Minkowitzは「こういう小説を読むと性的に興奮する」と打ち明けるのです。

反ポルノのフェミニストといえばMacKinnonと並んで作家のAndrea Dworkinが思い浮かびますが、MinkowitzはDworkinによる小説「Mercy」の中のレイプの描写も性的なファンタジーに使います。 彼女にとって、反暴力の立場から書かれたDworkinの小説も、ただ単に性的興味を満たすため書かれた暴力的なポルノも大して違いはありませ ん。

彼女が興奮するのはフィクションだけではありません。 1992年にニュージャージー州で起きた集団レイプ事件では、知的障害を持った被害者の証言能力の問題から無罪判決が出たのですが、この報道を読んだ彼女は、昼はフェミニストとして声高に判決を批判しながら、夜になると一人こっそりこの事件についての新聞記事を元に、頭の中で暴力的なファンタジーを繰り広げ、自分の指先を加害者の性器や犯行に使われた野球のバットに見立ててマスターベーションしていた事を打ち明けます。

もちろん、暴力的な描写なら何でもいいという訳ではありません。 レイプを報じる新聞記事も様々であり、怒りを感じる記事もあれば気分を悪くさせる記事もあります。 が、時にはそれらの感情とともに性的興奮を感じる記事があり、またある時には興奮以外の感情を何も感じない事すらあるというのは、彼女にとって否定しようの ない事実なのです。

ここまで告白した彼女は、このような自分は非人間的か、と問いかけます。 人間性というコントロールを失った、汚れた獣になる恐怖。 獣になる恐怖感が存在する事を認めつつ、ここで彼女は女性は「汚れる恐怖」を理由に自分のセクシュアリティを認めないよう教会から、社会から強要されていたのではないかと指摘します。

続いて彼女は、レズビアンである事を打ち明けた15歳の頃の経験を打ち明けます。 最初のガールフレンドとのセックスで彼女が感じたのは、何を置いても性的に興奮することの恐怖と不快感です。 興奮すると、コントロールを失ってしまいそうな、そういう不安定な感覚。 闘牛士が牛に向かって赤い旗を振るような、危険と隣り合せの行為として、彼女はセクシュアリティを経験します。 彼女にとって性的な興奮とコントロールを失う事は一緒になって認識されているのですが、それはマゾヒズムであり同時にサディズムでもある訳です。

Catharine MacKinnonはボスニア内戦に関する1992年の記事で、ポルノグラフィの氾濫によってコントロールを失ったセクシュアリティこそが、セルビア人武装勢力によるムスリムとクロアチア人女性の組織的レイプの原因だと分析しています。 彼女によると、大量虐殺・組織的レイプの責任者として捕まった戦犯たちの宿舎には悪質なポルノグラフィが山と積まれており、擦り切れるほど読まれていたそうです。 このようなポルノグラフィを読むうち、普通のセルビア人の青年たちが性的なコントロールを失い、女性を性的な対象のみと看做す「モンスター」に作られていったのだ、とMacKinnonは結論付けます。

ここで、暴力的なポルノを見て興奮する事と、暴力的なポルノを見て暴力を起こす事には大きな違いがあるのではないかとMinkowitzは考えます。 すなわち、彼女はセルビア人の戦犯と性的なファンタジーを共有しているが、彼女はSMによりそうした欲望を解消する方法を知っており、モンスターのように他人を傷つける事はないと主張するのです。

人々が自由に性的なファンタジーによる興奮を経験したらコントロールを失って「モンスター」になってしまうと仮定しているとして、MinkowitzはMacKinnonを批判します。 しかしそれは、このような恐怖の全面的な否定ではありません。 彼女自身、15歳の頃自分自身とガールフレンドを完全に信頼しきれずに、コントロールを失う恐怖感に苛まれていたのです。

そのような恐怖感を克服するには、「獣」の存在をしっかりと見つめる必要があると彼女は主張します。 そこに「獣」がいないように振る舞おうとすると、逆にそれは心の地下深くに潜って、より汚らわしい存在に感じられますが、実は「獣」は人間の自然な欲求の一部であり、隠す必要はないと彼女は考えるのです。 自分の中「獣」を認める事、それは「モンスター」になる事ではないのだと彼女は主張するのです。

この論文を読んだ第2次の代表的活動家、Gloria Steinemは、暴力的な家庭で育った多くの男の子が大人になると暴力的になり、女の子は大人になると暴力的な男性と結婚するという傾向を挙げ、子供の頃の経験がどれだけその後の人間関係に影響を与えるかという論理を展開します。 その上で、Minkowitzを含む多くの女性が、子供の頃受けた虐待の影響でSM的な性的嗜好を身に付ける事を嘆いてみせるのです。

統計的に言って、Steinemの主張にある程度筋が通っている事は認めざるを得ません。 SMを完全に個人の主体的選択と主張するのは、虐待とそれによる社会化という現実がある以上難しいでしょう。 しかし、Minkowitzが主張しているのはそのような事ではないのです。 彼女はSMを弁護しているのではなく、自分の中に潜む性的欲望という「獣」を、モンスターではなく自分の一部として認めようと主張しているのです。

「本当の自分」を何よりも優先させる傾向の強い第3次フェミニズムの中でも、Minkowitzの論文は刺激的と受け止められましたが、実は彼女の主張はこれだけ単純明快なのです。 個人的な告白としてSM的な欲望を取り上げているためか一部の第2次フェミニスト達から強烈な顰蹙を買いましたが、これこそ彼女の言う「コントロールを失うに恐怖/モンスターになる恐怖」を示す反応でしょう。

第2次後期のラディカルフェミニズムに反発しながらも、男性主体の陳腐なポルノ擁護論に与するのではなく、女性である自分の性的主体性という面から性的欲求という「獣」を正当化する論理は、第0回で取り上げたLisa Palacのそれと似ています。 「自分に素直になること」「ありのままの自分を認めること」から始まる第3次フェミニズムの波は、もうそこまで来ています。

To Be Real


Minkowitzのその後

今回紹介したDonna Minkowitzは元Village Voice誌コラムニストで、著書に「Ferocious Romance: What my encounters with the right taught me about sex, God, and fury」(1998)があります。 「Ferocious Romance」はプロミス・キーパーズはじめ超保守派・宗教右派の集会に次々参加してはルポを書いたり、クィア・ムーブメントと宗教右派の相違点を論じた内容で、非常に興味深いです。 残念ながら(?)最近はS/Mからは卒業してしまったみたいですけど・・・

ところで、このコラムを読んだ人から、「こんな事を言うフェミニストが存在するわけがない!」という抗議が来ました。 そんな事言っても、現に存在しているんだから、私に抗議してどーなるって言うんだろうか。


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