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Wave Feminist Page

(e)merging. 第2回 (07/24/98)

エスノセントリズムと『裏切りのフェミニズム』

テキスト:

Veronica Chambers, Betrayal Feminism, from "Listen Up: Voices from the Next Feminist Generation" Barbara Findlen, ed. (1995)

Helen Zia, Sabrina Margarita Alcantara-Tan & Karen Jaw, Alternate Feminisms, from A. magazine June-July, 1998

マイノリティの学生に与えられる奨学金を手にしたVeronica Chambersが初めてフェミニズムと接したのは、他の多くの若い女性と同じく大学の「女性学」のクラスでの事でした。 常に感じていた現状への漠然とした違和感に答えてくれる存在として、彼女はフェミニズムに傾倒します。

当時ベストセラーとなっていたNaomi Wolfの「The Beauty Myth」(New York: William Morrow, 1991)を手にしたのもそういう時期でした。 この本は、女性が成功を阻まれる要因として、メディアなどを通して社会全体に広がっている「美の神話」を指摘する内容でした。 批判される「神話」には「普遍的な美の基準が存在する」「女性の価値はその美しさによって決められる」「女性が成功するためには美を獲得しなければならない」「誰でも努力すれば美を勝ち取ることができる/美しくない者は成功する意思がない」などの社会的迷信が含まれます。

「The Beauty Myth」が好著であった証拠として、「美の神話」という、この本によって発見され名付けられた概念がさまざまな分野に影響を与えたことが挙げられます。 フェミニズム理論の面からは、フェミニズムの主流が過去のよりシンプルなリベラルフェミニズムと決別するきっかけを与えただけでなく、ポストモダン・フェ ミニズムによる「男性の視線によって構築される美」という分析にも繋がりました。 Wolfの分析をきっかけとして、黒人運動では「スポーツによる成功という神話」への批判が高まり、さらに「アメリカン・ドリームという神話」を否定する男性運動にまで影響を与えました。

一方、Wolfのこの著作には、あまりに事実関係のチェックが甘いという批判が早くから入りました。 特に酷い例としては、彼女は年間15万人の若い女性が接食障害で死亡しているというデータを挙げながら、これは「美の神話」が生み出した「現代のホロコースト」であるという主張を展開しいますが、この数字は「接食障害に苦しむと考えられる人数の推測値」であり、死亡者数ではなかったのです。 「15万人」という数字の元となった報告書によると、死亡者数は年間60人程度でした。 さすがにWolfは第2版では数字を伏せたのですが、「ホロコースト」という例えはそのまま使っている事に疑問の声は耐えません。

さて、Veronica Chambersも当時の多くのフェミニストと同じく知的な興奮を経験しながら読んだのですが、ある箇所を読んだ瞬間彼女は一気に冷めてしまいます。 それは、「ホロコースト」という見当外れの表現でも、ダイエットに励む女性を「洗脳されたカルト信者」に例えた極端な部分でもありませんでした。 職場における女性の抑圧を、黒人に対する差別と比べた部分だったのです。

Wolfによると、黒人も女性も差別を受けているのは同じだが、黒人に肌の色を変えろと要求する上司はいない。 しかし、女性は服装や化粧をはじめ、容姿を変えるよう常に要求されており、従って女性の方が黒人よい余計に差別されている、とWolfは主張します。 ここでは「黒人」と「女性」が完全に別個のカテゴリとして扱われており、黒人女性であるChambersは自分の存在を否定されたような印象を受けたのです。 彼女から見ると、Wolfは「黒人」という言葉で「黒人男性」を指していると感じられたのです。

なぜChambersはそのように感じたのでしょうか? 一見すると、Wolfは黒人女性が「美の神話」の束縛を受けている事を否定したわけではなく、単に黒人一般に対する差別と女性一般に対する差別を比べているように見えます。 ところが、Chambersから見ると、このような比較自体が不可能なのです。

例えば、髪形の問題があります。 黒人の多くは産まれつき白人に比べてちぢれた髪の毛を持っていますが、そのままの髪で白人社会に溶け込む黒人はほとんどいません。 テレビにもほとんど出て来ません。 短く切ったり頭を剃ってしまう人(ほとんどは男性)は別として、多くの人は髪の毛を滑らかな直毛にしています。 実は、そうでもしなければ多くの会社には就職もできないのです。

髪を伸ばすのにはいくつか方法があります。 一番安上がりなのが、昔から行われていたようにアイロンのような道具を使って熱で無理やり伸ばす方法ですが、髪を痛める上に雨などにより髪が濡れたらすぐにまたちぢれてしまいます。 他には、化学薬品を使う方法もあり、これは熱より長く持つのですが値段が高く、非常に髪へのダメージが大きいです。 しかし、だからといってちぢれたままの髪では「汚らしい」として解雇されるので、仕方無く多くの黒人たちが自分の体を傷つけて自然に逆らっているのが現状です。

一方、髪を痛めずにかつ清潔的で、簡単にシャンプーできる髪形として髪を編む人もたくさんいます(黒人社会を舞台とした映画でも見られると思います)。 編むには数時間の時間とかなりの料金がかかるのですが、一端編むと数ヵ月はそのままシャンプーでき、また髪の手入れも単にちぢれたままの場合に比べて非常に簡単です。 そうする事によって、やっと髪の滑らかな日本人や白人の女性と同じように気楽にシャワーを浴びたり、雨の日に外出する事ができるようになるわけです。

ところが、髪を編んだ女性が「民族的すぎる」という訳の分からない理由で突然解雇されたり、髪形を変えるよう強要される事件がアメリカでは当り前のように起きています。 それも、地方の小さな会社での話ではなく、最近ではアメリカン航空が訴えられたように国を代表する大企業や他国籍企業でもこの種の不当解雇は後を絶たないのです。 雇用者の言い分は、他にもたくさん黒人女性を雇用しているから人種差別でも性差別でもなく、現に他の黒人女性達はみな滑らかに髪を伸ばしているのだから同じようにすべきだ、という物で、現在まで多数の裁判が起きているのに原告が勝訴したケースはいまだにありません。

白人でも同じ髪形をしたら解雇するのだから人種差別ではないという理屈ですが、それは「男性だって妊娠したら退職させるから、妊娠した女性を無理やり退職させても差別ではない」と言うような物でしょう。 つまり、黒人に肌の色を変えろとまでは要求しなくとも、人種的・身体的な特徴を覆い隠して白人と同じ格好をしろという圧力は現に存在しいるわけです。

ChambersによるWolfの批判はつまりそういう事で、黒人女性の経験を「黒人としての経験」と「女性としての経験」に分けて、まるで黒人一般に対する抑圧と女性一般に対する抑圧とが別個に働いているような前提が間違っているという事なのです。 「美の神話」は人種的抑圧のコンテクストから自由ではなく、Wolfの言う「美の神話」とは白人中心主義の「美の神話」である、というChambersの指摘は、おそらくWolfが考えもしなかったであろう視点でしょう。

Chambersがこのようにフェミニズムの主流派から「裏切られた」と感じるのはこの時だけではありません。 様々な運動に参加しながら、白人のフェミニストたちが「自分たち女性」と口にする度に、彼女は疎外されていると感じます。 それは、アイデンティティを一元的に捉えて「黒人であること」と「女性であること」のどちらか一方を選択するよう常に迫られているような物だと彼女は語ります。 フェミニストの集団に入るならば、「女性」という単一のカテゴリを通して自らを白人女性たちと同一化し、黒人としての自分を否定しなければならない、そういう無言のプレッシャーを彼女は感じるのです。

このように感じるのは彼女だけではありません。 彼女の黒人の友人には女性の地位について関心を持つ人が少なくないのですが、その中の誰として白人中心のフェミニストの集会に参加しようとはしません。 アイデンティティの方向として「(白人)女性」「黒人(男性)」のどちらか一方だけを選択するよう迫られた彼女達は、社会の仕組みとしての性差別の問題より、日々の生活により大きな影響を与えている人種差別の問題を優先し、男性中心主義に侵された黒人運動に同調するしかないのです。

Chambersよると、女性運動と黒人運動の両方に関心を持つことは、双方から裏切りと見なされ、また双方から裏切られる危険があるため、黒人女性がフェミニズムに参入する事への弊害となっています。 150年前のSoujourner Truthの訴え("Ain't I a Woman?")を、フェミニズムは未だに克服していないとChambersは主張しているのです。

ではここで、Chambersの議論を踏まえつつアジア系アメリカ人の主張を聞いてみましょう。 登場するのは「Ms.」誌のスタッフとして日頃から白人のフェミニストたちと行動を供にしているHelen Ziaです。 彼女はマイノリティのフェミニストの中ではエリートに含まれる部類でしょうが、彼女もメインストリームのフェミニストに大きな不満を持っています。

Ziaは、フェミニズムの中でのアジア系アメリカ人女性の位置付けとして、「おとなしい」「穏やか」という人種的ステレオタイプに阻まれ、自分の感情を認めてもらえない事を不満点の第一として挙げています。 その上で、様々なイベントでも企画段階では呼ばれずに本番だけ単に飾りとして呼ばれる事が多いなど、フェミニズム内でのアジア系アメリカ人への偏見は一般社会でのそれと大差ない事を指摘します。 Zia自身の経験でも、「Ms.」誌の表紙に東南アジアの女性の写真を使おうとした所、「雑誌のイメージが損なわれる」として反対された事などを紹介しています。

1989年にチェン事件というのがありました。 中国系アメリカ人のチェンという男性が同じく中国系の妻を金槌で殴り殺した事件なのですが、彼の弁護士が「中国の文化では夫が妻を殴る事は認められている」と主張した事で執行猶予付きの判決が下されました。

この件に対しては、多くの白人のフェミニストが抗議運動を繰り広げたのですが、彼女達が主張したのは「文化的相違を裁判で持ち出すのはけしからん」という事でした。 これは、つまり欧米文化を普遍的な基準として他の基準を一切(情状酌量に使う事すら)認めないという事であり、白人中心主義に他なりません。 Ziaらアジア系アメリカ人のフェミニスト達は、自分と同じアジア系の女性が殺された事にショックを受け、アジア系アメリカ人社会の基準で考えた上でチェンの殺人は許されない行為であると抗議をしていたのですから、このような形で白人フェミニストが関与するのは迷惑でしかありません。 第一、白人の男性が妻を殺して執行猶予付きの判決を受けるケースはたくさんあるのに、ことさら中国系アメリカ人のケースだけを大々的に取り上げるのは人種差別と呼べなくもないでしょう。

では、このような強烈な違和感を感じていながら、なぜChambersやZiaは白人主体のフェミニズムに関わるのでしょうか? 「他に選択の余地がないからだ」とZiaは言います。 チェン事件が起きた時の白人フェミニストの対応は論外でしたが、同胞たるアジア系アメリカ人の男性は何をしたのか。 何もしなかった。 アジア系アメリカ人のコミュニティーの内部で女性への暴力をなくそうという動きは起きなかったし、大半のアジア系アメリカ人の男性にとっては人種差別こそが真の問題であり、両性の平等化という課題を持ち出しても「それは欧米の文化であり、アジア人にはアジア人の文化がある」で済まされてしまう。 つまり、嫌でも「アジア系であること」と「女性であること」は同時に主張していかねばならないのだ、とZiaは説明します。

アメリカ合衆国でマイノリティ出身とされるフェミニストたちは、彼女達のルーツであるアジア・アフリカ・ラテンアメリカにおける女性に対する暴力や人権侵害にも関心を抱かずにはいられません。 アフリカでは未だに女性器切除が行われ、アジアでは売春ツアーやメールオーダー・ブライドの問題があります。 また、途上国の多くでは先進国から来た他国籍企業による搾取や環境破壊が問題となっています。

以前、軽薄に「グローバル・シスターフッド」を主張して、途上国の女性達に自分達の主張を押し付けようとした白人のフェミニストたちと違い、そこに住む人との接点をまだ保持しているマイノリティのフェミニストたちが、国際的なフェミニストの連帯の要となる可能性は大きいと思います。 そのためにも、白人のフェミニストたちは人種的マイノリティのフェミニストたちの主張をしっかり聞いて、フェミニズム内部の人種差別に敏感になる必要があるでしょう。 すべてのフェミニストがすべての抑圧と戦う必要はないのですが、抑圧の存在を無視したり、抑圧に荷担するようでは、フェミニズムの将来にとっても不幸だと思います。

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